旧国の北陸4県と都

昨年、護衛艦「かが」が石川県の金沢港に寄港したが、名称「かが」は日本の令制国※1(以後、「旧国」と表現する。)「加賀国」(かがのくに)が由来している。
私は旧国「加賀国」内で生まれ育ったが、加賀国を含め周辺の旧国については名称くらいしか知らなく、その名称について以前から違和感を持っていたこともあり、この機会に北陸地方に於ける旧国について調べてみた。

令制国とは、日本の律令制(りつりょうせい)に基づいて設置された地方行政区分である。飛鳥時代から明治時代初期まで、日本の地理的区分の基本単位でもあった。令によって規定される制度を令制と言うので、令制の国であることから令制国と言う。なお、律令国(りつりょうこく)又は旧国とも言う。
飛鳥時代(592年~710年)、遣唐使により唐の律令を中心とする中央集権国家体制が伝わり、それまでの氏姓制度を改め、天皇中心のよる強力な中央集権国家が造られて行く。
それまでの大和王権の「氏姓制度」では、天皇(大王)中心であるものの実質は豪族が土地・人民を支配し、その豪族の中で最も巨大な権力を持つを大王が豪族を支配していた。一方、律令制の中央集権では、天皇が豪族・人民・土地を直接支配することになる。

旧国名が付いた名称

北陸地方とは、中部地方の日本海側の地域を指す。狭義では福井県、石川県、富山県の北陸三県であり、広義では更に新潟県を加えた北陸四県である。
また、北陸の旧国として、越前(えちぜん)、越中(えっちゅう)、越後(えちご)、加賀(かが)、能登(のと)がある。旧国がどの地域を指すかは、現代に於いて旧国名が付いた名称の特産品等があるので、特産品等がどの地域の物か知っていれば感覚的に把握できる。

代表的な旧国名が付いた名称は次のとおり。

越前(現在の福井県嶺北地方)※2

越前ガニ

越前ガニ
福井県沖で水揚げされるズワイガニの雄のこと。
ズワイガニは、深海(主な生息域は水深200m~600m)に生息する大型カニである。「ズワイ」とは、細い木の枝を意味する古語が訛ったものとされている。雄(甲幅サイズは約14㎝)と雌(甲幅サイズは雄の半分程度)のサイズに大きな違いがあるため、漁獲される多くの地域で雄と雌に違った名称が付けられている。ちなみに、福井県沖で水揚げされるズワイガニの雌は、「セイコガニ」と呼ぶ。

越前箪笥

越前箪笥
福井県越前市(旧武生市)や鯖江市周辺で作られる、ケヤキやキリなどの材木を加工し、鉄製金具や漆塗りで装飾している重厚な造りの箪笥のこと。平成25年に伝統的工芸品に指定される。

越前和紙

越前和紙
福井県嶺北地方の和紙で、全国に数ある和紙産地の中でも、1500年の長い歴史と最高の品質と技術を誇る。

現在の福井県は北西側の嶺北(れいほく)地方と南西側(若狭湾沿岸の地域)の嶺南(れいなん)地方に分かれる。面積比率は、嶺北:嶺南≒3:1である。大雑把な言い方をすれば嶺北地方が旧国の越前に相当するが、正確には現在の嶺北地方+敦賀市が旧国の越前である。

越中(現在の富山県)

越中富山の置き薬

越中富山の置き薬
古くから富山県にある薬の販売方法の通称である。薬箱を顧客の家に預け、定期的に顧客の家を訪問し、薬の補充や古くなった薬の交換など薬箱の維持管理を行なう。代金は顧客が実際に薬を使った分となる。
私の子供の頃は、石川県小松市の実家にも定期的に来ていた。

追記

テレビで言っていたが、越中富山の薬売りが幕末に大きな役割を果たしたとのこと。

薩摩担当の薬売りが、薩摩藩内で営業権を維持するために、幕府の目を盗んで蝦夷地の昆布の輸送を行った。薩摩藩はこの昆布による中国との交易で巨額の利益を生み、藩の財政が立ち直り倒幕維新の原動力となる。

update on May.2,2022

越中褌

越中褌
越中褌が本格的に普及したのは明治末期頃で、明治6年に徴兵令が制定され、徴兵された男子に軍隊が支給し、使用を義務付けたからである。その後、太平洋戦争が終了するまでは、日本人成年男子の下着は越中褌となる。名前の由来は複数あり、その1つとして越中富山の置き薬の景品だったことが由来する説がある。

お詫び
モデルが褌姿の写真を公開することに恥ずかしがりだしため、人物を特定できない様に目を黒塗りで隠した画像になってしまったことに対し、謹んでお詫び申し上げます<(_ _)>

越後(現在の佐渡島を除く新潟県)

水戸黄門、助さん及び格さん

越後のちりめん問屋
テレビドラマ「水戸黄門」で、水戸藩の徳川光圀(水戸黄門)は、恐れ多い先の副将軍であったことを隠し、『越後のちりめん問屋のご隠居』と偽り、全国を漫遊する。その土地土地で領主の不正を暴き、水戸黄門が「助さん格さん懲らしめてやりなさい」と言う。すると助さんと格さんは峰打ちで懲らしめた後に、どっちか知らないが「控え居ろう! この紋所が目に入らぬか!」と言うと、領主サイドと領主に虐められていた庶民が「はぁはぁー」と地面に頭をこすり付ける時代劇。
水戸黄門が並みの人物であれば、真っ先に「助さん格さん印籠を見せてやりなさい」と言い、パワハラで領主サイドが逆らえない状況に追い込んだ上で、助さん・格さんだけでなく水戸黄門も加わり可愛がり(懲らしめ)が始まり出す筈である。しかし、そのような振る舞いを数十年の放送の中で一度も見たことがなく、この奥床しい気品はさすが副将軍まで登り詰めた人物である。

悪代官と越後屋

越後屋、お主も悪よのぉ
時代劇に登場する商人「越後屋」が代官と共謀し悪事を働き、悪代官から発せられる言葉。「越後屋」は、江戸時代の代表的な商人「三井越後屋」(現在の三越デパートの前身)から来ていて、ドラマの設定上、悪人は大物感があった方が良いので、「越後屋」が使われたようである。実在した「三井越後屋」や新潟(越後)の商人の評判が悪かった訳でもない。ただ、新潟県民にすれば、悪徳商人の代名詞に「越後屋」が使われるのは不快だろう。

加賀(現在の石川県加賀地方)※5

金沢城

加賀藩
江戸時代、旧国の加賀、能登、越中の大部分を領地にしていた。藩祖(初代藩主)は前田利家で、明治の廃藩置県に至るまで前田家は十四代まで続いた。石高※3は、100万石を超えていたことから「加賀百万石」とも言う。
参考までに、東大の赤門は前田家の江戸藩邸上屋敷の御守殿門※4である。

古総湯(山代温泉)

加賀市
私が住んでいる小松市の南側に隣接し、石川県の南端に位置する。片山津温泉、山代温泉、山中温泉の3つの温泉郷が存在する。

加賀友禅の友禅流し

加賀友禅
国指定伝統的工芸品で、江戸時代中期の加賀藩の時代から発達した友禅染。加賀友禅は「加賀五彩」とよばれる臙脂・藍・黄土・草・古代紫の五色で構成され、京友禅より沈んだ色調が特徴。
金沢市内を流れる浅野川では、工程の最後の方に、余分な糊や染料を洗い流す友禅流しが見られることがある。

護衛艦かが

護衛艦かが
2017年3月から就役している海上自衛隊のヘリコプター搭載護衛艦。
昨年末に、防衛省がヘリコプター搭載護衛艦で運用する短距離で離陸できるF-35B戦闘機の導入を本格的に検討している旨の新聞記事を見た。昨年、金沢港(石川県)に寄港した護衛艦かがに乗艦し、改修(e.g. 発艦を助けるスキージャンプ甲板、甲板の耐用塗装)が必要になるにしてもF-35Bを搭載可能ではと思っていた。なので、意外感はなく「なんだぁ、やっぱりそう言うことも考慮した護衛艦だったんだ。」との印象である。
なお、政府見解は自衛のための必要最小限度を超える攻撃型空母を保有できないとしているが、海上自衛隊は防衛型空母として、南西諸島防衛(有事に自衛隊が南西諸島の民間空港を使用するには運用上問題有りとの考えから代替滑走路として)や艦隊防衛(艦隊への空からの攻撃を空母搭載の戦闘機による防衛として)のために必要と考えているもよう。
参考までに、F-35にはA、B及びCの3種類の型があり、違いはコチラを参照。また、ヘリコプター搭載護衛艦の詳細についてはコチラを参照。

空母加賀

空母加賀
旧海軍の空母で、元は戦艦であったが、空母の重要性から改造された。艦長の岡田次作(おかだじさく)は石川県出身である。1941年(昭和16年)9月に艦長に就任し、真珠湾攻撃(同年12月8日)に参加し、翌年のミッドウェー海戦(1942年6月5日~7日)で撃沈され戦死している。

急行加賀(新大阪駅)

急行加賀
かつて金沢駅~大阪駅、又は金沢駅~上野駅を運行した急行列車。

江戸時代の所領は面積でなく、玄米の生産高で表した。その単位が「石」であり、石高とは生産高を米の量で表したものである。所領に米を作らない畑や屋敷の敷地があるが、米を作ったと仮定して石高を設定していた。石高は土地の面積に石盛(こくもり)と言う生産高などの優劣により定められた係数を掛けて求める(石高=石盛×面積)。
1石は米の重さにして150㎏であり、成人1人が1年間に消費する米の量とほぼ等しいとされているが、現代人はそんなに食べていない。
御守殿の門のことで、門を丹塗り(にぬり)にしたところから、表門の黒門に対して御守殿門は赤門と呼ばれている。
江戸時代、将軍の姫君が大名に嫁ぐ際に赤い門を建てる決まりになっていて、東大の赤門は11代将軍 徳川家斉の娘である溶姫が加賀前田家に嫁いだ時に建てられた門である。家斉の子供の内、10人を越える姫君が大名に嫁いでいるため、それぞれの大名家に赤門が造られたと考えられており、江戸のあちこちに赤門があったことが推測できる。しかし、当時は赤門が焼失した場合に再建を許されない慣習があったこともあり、残存する赤門は数少ない。
将軍の姫君を迎い入れる際、姫君のお付きの女中や役人、御守殿や赤門など、どれも豪華であり経費が掛かり、大名には大きな負担になった。その一方で、将軍家と縁戚関係を築けるメリットがあり、家格や官位上昇を引き換えに考えた大名もいたようだ。
なお、御守殿とは江戸時代の三位(さんみ)以上の大名に嫁いだ徳川将軍家の姫君の敬称でもあるが、その姫君が住む奥御殿のことでもある。
参考までに...
家斉の子供は驚くなかれ53人いた(男26人、女27人、更に流産した子供もいる)。そのため、正室だけでなく、側室が24人、お手付が20人以上いたと言われている。お世継ぎ作りが重大な公務だったかもしれないが、その責任感の強さだけで子供を作りまくったとは思えない。なお、当時は乳幼児の死亡率が非常に高く、成人したのは半分強の28人である。

能登(現在の石川県能登地方)※5

急行能登

急行能登
東海道新幹線が開業するまで金沢駅~東京駅を運行していた夜行急行列車。

現在の石川県は、北側半分の「能登地方」と南側半分の「加賀地方」に分かれる。能登地方の南側端は「羽咋郡宝達志水町」(はくいぐんほうだつしみずちょう)であり、加賀地方の北側端は羽咋郡宝達志水町の南側に隣接する「かほく市」と「河北郡津幡町」である。大雑把な言い方をすれば旧国の「加賀」・「能登」は現在の加賀地方・能登地方に相当するが、正確には河北郡津幡町、かほく市及び羽咋郡宝達志水町を横断している「大海川」(おおみがわ)が旧国の境界である。

石川県が「越」に挟まれている理由

北陸地方に於ける現在の県と旧国を地図に表すと次のとおりである。なお、地図上の旧国の時代は、平安時代初頭(西暦823年)~明治時代初頭(廃藩置県:明治4年:西暦1871年)である。

北陸地方に於ける県と旧国の領土関係

私は以前から旧国の名称に違和感を持っていた。それは北陸地方に於いて、上記地図が示すとおり越前と越中に挟まれた石川県だけが「越」が付かないことである。旧国名語尾の「前」、「中」及び「後」は、都を基準した遠さから来ているので、それを考えると石川県だけが不自然に外されている感覚を持っていた。

この私の疑問を解決するには、平安時代より前に遡る必要があり調べてみた。時系列で見ていくと以下のとおりである。

高句麗(「こうくり」と読み、現在の朝鮮半島北中部で、中国の一部にも掛かる。紀元前37年~西暦668年)の使者が、北陸経由で都へ向かう時に、越えなければならない国と言うことで、北陸4県(福井県~新潟県)を纏めて「越の国(こしのくに)」と呼ばれていたようだ。当然、石川県は「越の国」の一部であった。

   下矢印

その後(7世紀末の飛鳥時代)、「越の国」が3つの国に分離独立し、都に近い国を「越前(えちぜん)」、中央の国を「越中(えっちゅう)」、最も遠い国を「越後(えちご)」と呼ばれた。この時の越中は富山県、越後は新潟県に相当するが、越前は福井県だけでなく石川県も含んでいた。

   下矢印

奈良時代に入り、国の分離・併合が続き、次のように移り変わる。
西暦718年に能登が越前から分離独立右矢印西暦741年に能登は越中に併合右矢印西暦757年に再び能登が越中から分離独立

   下矢印

西暦823年(平安時代)に加賀が越前から分離独立し、1000年強この状態が続いた。

以上により、石川県は最初から「越」から外されていたのでなく、元は「越」の一部であったが、その後の政治情勢により「越」と名乗らなくなったことが分かる。